「壬申の乱」の勝利。
そして始まる新しい国づくり。
~天武天皇の物語~

日本古代史上最大の戦乱「壬申の乱」についてはこちら

飛鳥浄御原宮で
始まる国づくり

日本古代最大の戦乱である壬申の乱で大友皇子(おおとものみこ)を破り、天武天皇2年(673)2月に飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)で即位した天武天皇(大海人皇子、おおあまのみこ)は鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ、後の持統天皇)を皇后とした。
天武天皇は、自身の人徳と豪族とのつながりで得た壬申の乱の勝利から多くの教訓を得た。

その一つが後継者問題だった。天武天皇には、10人の皇子がいた。天武天皇8年(679)、皇后の息子である草壁皇子(くさかべのみこ)をはじめ、6人の皇子を伴い、吉野に行幸(天皇の外出)した。天武天皇は皇子らに、「それぞれ同じ母親ではないが、互いに助け合い争いをしないように」と、皇后を皇室全体の母として、さらに実子である草壁皇子を皇位継承者と定め、紛争を回避するための盟約を交わした(吉野の盟約)。

妻の病気回復を願い、
薬師寺の建立を目指す

翌天武天皇9年(680年)、天武天皇は病に伏していた皇后(後の持統天皇)の病気平癒を祈願し、薬師寺の建立を発願。(現在は本薬師寺跡と呼ばれ、薬師寺は平城遷都に伴い今の場所(奈良市)に移っている。)
天武天皇の崩御後は、持統天皇が継続し造営。最愛の夫を亡くし、深い悲しみの中で政務に就いていた。夫の遺志を受け継いだ持統天皇。持統天皇11年(697)、念願だった薬師如来が完成し、開眼供養が営まれた。皇后の病気平癒を願い夫の天武天皇が発願し建立された薬師寺の完成は、志半ばで亡くなった夫への最大の供養となった。

写真提供 一般財団法人奈良県ビジターズビューロー

本薬師寺跡

薬師寺

律令国家の確立を
目指して

時代をさかのぼり天武天皇10年(681)、刑法(律)と行政法・民法(令)を定める律令国家の確立を目指し「飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)」の制定に着手。天武天皇11年(682)には新しい都・藤原京の予定地が決められ、天武天皇自身が現地に赴き、宮殿の場所などを決め、都を移すことに意欲を見せていた。
同じ頃、氏姓制度を再編序列化する『八色の姓』を制定。冠位によって朝廷に出仕する際の服の色を定め、服装についても規定を設けた。また、国史の編纂を命ずるなど、皇族が主導する政治体制(皇親政治)の確立を目指して国の礎を着々と築いていたその最中、天武天皇は志半ばで崩御した。