吉野を出立した大海人皇子(おおあまのみこ・後の天武天皇)の一行は、津振川(つふりがわ・現在の津風呂川)の水系に沿って進み、菟田の吾城(安騎・阿騎・阿紀とも書く)に到着。そこへ大伴連馬来田(おおとものむらじまぐた)と黄書造大伴(きふみのみやつこおおとも)が吉野宮(よしののみや)から一行に追いつきました。このとき、屯田司(みたのつかさ)(天皇の食される米を作る屯田の官司)の舎人(とねり)(皇族に仕え雑役を担当する官人)である土師連馬手(はじのむらじうまて)が従者たちの食事を奉りました。
壬申の乱の後、『日本書紀』天武天皇9年(680)3月の条には、天武天皇は菟田の吾城に行幸したとあります。『万葉集』に「阿騎の大野」「阿騎の野」とあり、「宇陀の大野」とも詠まれました。
吾城は、現在の宇陀市大宇陀(おおうだ)の迫間(はざま)・中庄(なかのしょう)・拾生(ひろう)・本郷(ほんごう)辺りに比定され、迫間には式内社阿紀(しきないしゃあき)神社があります。本郷の東南、拾生の中之庄遺跡からは、7世紀代の掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)や苑池遺構(えんちいこう)(庭園遺跡)が検出されていますが、天皇・皇子たちが薬猟(くすりがり)(5月5日に鹿の若角や薬草を摘んだ日本古代の習俗)に訪れたときの離宮的施設ともみられ、阿騎野・人麻呂(あきの・ひとまろ)公園として整備されています。
大海人皇子の一行は、伊賀、伊勢へと進路をとり、美濃に向かいまいした。
宇陀市阿騎野・人麻呂公園
【住所】宇陀市大宇陀拾生76番地の1
【TEL】宇陀市役所 建設部公園課 0745-82-3674
【交通】近鉄榛原駅下車 奈良交通バス大宇陀行き 20分 バス停:大宇陀高校前徒歩約5分