白村江の戦いが影響した?古代日本の分岐点“壬申の乱”とは 前編 白村江の戦いが影響した?古代日本の分岐点“壬申の乱”とは 前編

壬申の乱は、飛鳥時代に起こった大きな内乱。
皇位継承を巡って、天智天皇(※)の子「大友皇子(※)」と天智天皇の弟「大海人皇子(※)」が争った乱です。

(※)大海人皇子(おおあまのおうじ)
舒明天皇・皇極天皇の子、天智天皇の弟。壬申の乱に勝利後、飛鳥浄御原宮で即位し天武天皇となる。皇親政治を強化し、飛鳥浄御原令などを制定。
(※)天智天皇(てんじてんのう)
即位までは中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)。舒明天皇・皇極天皇の子。孝徳天皇・斉明天皇の皇太子。蘇我氏を倒し大化の改新を推進した。
(※)大友皇子(おおとものおうじ)
天智天皇の子。太政大臣となり大海人皇子と対立。近江朝廷の中心となるが壬申の乱の後、自害。

古代日本最大の内乱と呼ばれる「壬申の乱」ですが、教科書などでの取り扱いは意外なほど小さく、その歴史的な意義についてはさほど語られていません。

しかし、壬申の乱は「古代日本のターニングポイント」と呼べる大きな出来事のひとつ。今回は、前後編に分けて、壬申の乱の歴史的な意義について解説します。

前編となるこの記事では、壬申の乱の「原因と戦況」を改めて振り返ります。
解説は、日本考古学、文化財学が専門で飛鳥時代の歴史に詳しい奈良大学准教授・相原嘉之(あいはらよしゆき)先生。(以降、「相原先生」)

相原教授

▲相原准教授

それでは、壬申の乱について相原先生に詳しくお聞きします。

壬申の乱に影響を与えた“大化の改新後の情勢”と白村江の戦い

編集部

相原先生、本日は壬申の乱についてお伺いしたいのですが、この乱はどんな原因で起きたのでしょうか?

相原先生

壬申の乱は671年に天智天皇が亡くなった後、天智天皇の弟・大海人皇子と子・大友皇子が皇位をめぐって争った内乱です。壬申の乱が起こった原因を説明するには、大化の改新や白村江(はくそんこう)の戦いについても知っておいたほうが良いでしょう。

編集部

「大化の改新、むしごろし(645)」で年号を覚えた、あの大化の改新ですね。

相原先生

そうです。聖徳太子の死後、皇極天皇(※)の時代に中大兄皇子と中臣鎌足(※)が「乙巳(いっし)の変」で蘇我蝦夷(※)・蘇我入鹿父子(※)を滅ぼしました。大化の改新というのは、その後の政治改革のことをいいます。乙巳の変の後、孝徳天皇、斉明天皇(※)を中大兄皇子がサポートして政治を執っていました。そんな中、663年に白村江の戦いが起きます。日本にとって初の国際戦争といえるこの戦いが、壬申の乱に大きな影響を与えます。

(※)皇極天皇(こうぎょくてんのう)
舒明天皇の皇后で中大兄・大海人皇子の母。642年に(※)斉明天皇(さいめいてんのう)として即位し、乙巳の変後に退位。孝徳天皇の死後、斉明天皇として再び即位する。
(※)中臣鎌足(なかとみのかまたり)
中大兄皇子とともに大化の改新を推進。臨終の際に藤原の姓を天智天皇から授かる。後の藤原氏の始祖。
(※)蘇我蝦夷(そがのえみし)
蘇我馬子の子。大臣(おおおみ)に就任し、舒明天皇を擁立し権力を振るう。645年、入鹿が殺されたあと自害。
(※)蘇我入鹿(そがのいるか)
蘇我蝦夷の子。聖徳太子の子、山背大兄王(やましろのおおえのおう)を殺害。中大兄皇子らに645年、乙巳の変で暗殺される。
編集部

なるほど。白村江の戦いとはどのような戦だったのでしょうか?

相原教授
相原先生

白村江の戦いは、「唐(とう)・新羅(しらぎ)」「百済(くだら)・倭(※)」の間で行われた戦争です。日本は当時、百済と仲が良かったため救援に赴くのですが、日本の水軍は唐・新羅の連合軍に大敗を喫してしまいます。当時の天皇は皇極天皇が重祚(※)した斉明天皇ですが、自ら九州まで出向き、朝倉宮で亡くなってしまいます。次の皇位は息子である中大兄皇子に決まりますが、しばらくは天皇の位にはつかず、戦闘の指揮や敗戦処理などを行ったと言われています。

(※)重祚(ちょうそ)
一度退位した天皇が、再び即位すること。
(※)倭(わ)
当時の中国の各王朝は日本列島を「倭」と呼んだ。
編集部

中大兄皇子がすぐに即位しなかったのはなぜなのでしょうか?

相原先生

白村江の戦いに敗れたので、唐・新羅が国内に攻めてくる可能性がありました。そのため、太宰府や対馬などの守りを固めなければならなかったのです。中大兄皇子は、国防を最優先にしたため、すぐに即位しなかったのかもしれません。中大兄皇子は、しばらく飛鳥で政治を執ったあと、滋賀・大津京(おおつのみやこ)に都を移し、天智天皇として即位します。

大津宮の遺跡

▲天智天皇が都を移した大津宮の遺跡

編集部

大津に遷都したのはなぜなのでしょうか?

相原先生

詳しい理由は明らかではありませんが、国内外の危機から逃れるためでしょうね。白村江の戦いの敗戦もあり、飛鳥には天智天皇に不信感を持つ抵抗勢力もいました。さらに唐・新羅がいつ日本に攻めてくるかも分からない。大津は西側には比叡山の山塊が迫り、東側には琵琶湖が広がっていたことから、都を守るのに最適でした。さらに北へ向かえば北陸へ、琵琶湖を東に船で渡れば東山道・東海道に逃げることもできます。

壬申の乱の引き金に。皇位継承をめぐる天智天皇の悩み

編集部

当時の天智天皇の動向から、相当な危機感があったのだと想像できます。ちなみに、どのあたりから壬申の乱とつながってくるのでしょうか?

相原先生

やがて病に伏した天智天皇は、皇位を誰に譲るか悩みだしました。最初は弟の大海人に譲るはずだったのですが、だんだんと自身の子供である大友に譲りたいと思うようになったのですね。この、天智天皇の悩みが壬申の乱につながっていきます。

編集部

天智天皇の悩みによって、大友と大海人が対立する構図が出来上がったということですね。ちなみに、大海人と天智天皇の仲はどうだったのでしょう。

相原先生

必ずしも悪かったわけではないようです。額田王(※)をめぐる三角関係の説もありますが、大化の改新以降は中臣鎌足がうまく仲介をして兄弟で政治を執っていたようです。しかし鎌足が亡くなってからは、兄弟の関係が少しぎくしゃくし始めたようですね。そして、皇位継承を息子にと考えていた天智天皇ですが、大海人を呼んで「皇位を譲ろう」という話をするんです。

(※)額田王(ぬかたのおおきみ)
飛鳥時代の歌人。万葉集に12首。大海人皇子の寵愛を受けるも、後に天智天皇に召されたという説がある。
編集部

本当は大友に皇位を譲りたいはずなのに、なぜそんな提案をするのでしょうか?出方を試されていたとか……?

相原先生

その通りです。実際、身の危険を感じた大海人は「出家して吉野にこもります」と言いました。その前に、皇位継承順位としては最上位の太政大臣(だじょうだいじん)に、大友が任命されていたという背景もあるでしょう。

編集部

万が一、大海人が「皇位を継承する」と言っていたら、殺されていた可能性があるということですよね……?

相原先生
相原先生

はい。ただ、結果的にはそれが逆効果になるのですが……。大海人を見送った臣下の者たちは、これで大海人が諦めるとは思っておらず「翼のある虎を野に放したようなものだ」と言ったとされています。大海人は後の持統天皇(※)となる妻・鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)を伴い、吉野に向かいます。

(※)持統(じとう)天皇
大海人皇子(天武天皇)の妻、天智天皇の子(鸕野讃良皇女)。持統天皇として即位し、大宝律令の制定に向けた国造りを進めた。
編集部

では、一度大友が天皇として即位するのですね?そこからどのように乱に進んでいくのでしょう?

相原先生

『日本書紀』に大友が即位した記録がありません。大友には「弘文(こうぶん)天皇」という呼び名もありますが、これは明治時代に付けられた諡(おくりな)です。天智天皇の死後、喪に服していたこともあり、しばらくは大友の近江と大海人の吉野で緊張状態が続きますが、やがて大海人の台頭を恐れた大友が挙兵の準備を始めます。これが、壬申の乱の始まりです。

乱の始まり。天智政権への不満を利用した大海人の策略とは?

編集部

続いて、戦況についてお聞きしたいと思います。大友の挙兵準備を受けて、吉野の大海人はどんな対応をしたのですか?

相原先生

大友は、吉野に食料を運ぶ道を閉ざそうとしました。大海人は、いつ大友軍が攻めてくるかも分からない状況に耐えかねて吉野を脱出します。

編集部

大海人は、どこに向かったのでしょうか。

相原先生

吉野の東、三重県へと移動したようです。逃げる目的もありましたが、同時に地方の豪族を次々と集めて軍を形成していきました。

編集部

逃げながら軍を形成……? 軍への参加要請を受け入れるのは簡単ではないと思うのですが、大海人はなぜ、多くの人を集められたのでしょうか。

相原先生

白村江の戦い以降、豪族の間で天智天皇への不満がたまっていたという背景があります。天智天皇は、日本初の戸籍・庚午年籍(こうごねんじゃく)という制度を導入しましたが、これが豪族に不利な制度でした。戸籍があれば、朝廷は税の徴収や徴兵をスムーズにできるわけですが、それまで税の徴収や徴兵は有力豪族の仕事でした。これによって地方の有力豪族は、自分たちの力が下がると思ったのです。このようなことも一因となって、天智天皇直系の大友ではなく大海人の味方をしようと考えたのです。

相原先生
編集部

なるほど。天智天皇への不満をうまく使ったということなのですね。ちなみに、大海人軍の主要人物は誰だったのでしょうか?

相原先生

全権は大海人の長男・高市皇子(たけちのみこ)が担っていました。陣頭指揮をとっていたのは豪族・大伴氏の一部の者たちで、勝った暁には中小の豪族たちに恩賞が約束されていたようです。

編集部

一方、大友軍にはどういう人物が味方したのでしょう。

相原先生

大友軍は、蘇我赤兄(そがのあかえ)という蘇我馬子の孫が大友を補佐していました。大津京には百済から戦乱で入ってきた渡来人(※)が多く、そういった人たちも徴用されたと言われています。

(※)渡来人(とらいじん)
4世紀以降、大陸や朝鮮半島から日本にやって来た漢民族・韓民族。儒教・漢字などの文化、須恵器や刀剣を製作する技術などをもたらした。

奈良・三重・滋賀県域へと広がる戦火。大友敗戦には「白村江の戦い」の影響が

編集部

壬申の乱は、結果的に大海人が勝利しますよね。いくら大海人が各地で軍を集められたといっても、朝廷を率いる大友の方が有利なのでは?と思うのですが、大友はなぜ負けたのでしょうか?

相原先生

それが、一番の敗因は人を集められなかったことにあります。庚午年籍(※)を利用して、大友は全国規模で人を集めようとしましたが、まだまだ戸籍は完成途上でした。しかも、その制度自体を嫌っている豪族が多かったため、人集めは困難を極めたようです。

(※)庚午年籍(こうごねんじゃく)
古代日本の戸籍制度。全国的規模のものとしては、最古の戸籍とされる。これにより、租・庸・調(そ・よう・ちょう)と呼ばれる、米・布・特産品の税金徴収が始まった。
編集部

本来は役に立つはずの制度が仇となってしまったと……。

相原先生

さらに、吉野から移動するとき大海人が交通の要所である東の不破関を押さえたので、大友は東側から兵を集められません。今度は西の筑紫に協力を要請しますが、筑紫は西国の要、外国に対しての国防を重要な任務としていました。ですから、国内の内乱には兵を出さなかったのです。

不破関跡地

▲岐阜県不破郡関ケ原町にある不破関跡地

編集部

白村江の戦いの影響がここにも……。兵集めの段階で勝敗がある程度確定していたのですね。近江だけでなく、飛鳥や大和も戦場になったのでしょうか。

相原先生

飛鳥寺の西方遺跡に「槻(つき)の木の広場」があるのですが、近江朝廷は、この場所を陣営の駐屯地にしていたようです。大海人がそこに陽動作戦をかけたとされています。「大海人の軍隊がやってくるぞ」と嘘をふりまいたんですね。

飛鳥寺の西方遺跡

▲飛鳥寺の西方遺跡

編集部

大海人はぬかりないですね……。

相原先生

それに驚いた近江の陣営は逃げ出してしまい、飛鳥の古京を大海人軍に奪還されます。そして箸墓(はしはか)古墳近くでの「箸墓の戦い」、最終的には「瀬田の唐橋での決戦」で大海人軍の勝利が確定しました。

箸墓古墳

▲奈良県桜井市にある箸墓古墳

瀬田の唐橋

▲最後の決戦となった滋賀県大津市にある瀬田の唐橋

編集部

大海人は天智政権への不満を逆手にとり、局面ごとに先手を取って戦を組み立てていったという印象です。片や大友は、すべての局面で後手に回ったという感じでしょうか。大友はどこで最期を迎えたのですか?

相原先生

大津京が陥落すると、大友は山前(やまさき)という場所で自害したとされています。この場所は特定されていませんが、大津の長等山か京都の大山崎あたりではないかといわれています。

編集部

天智天皇の時代からのほころびが、結果的に大友を追いつめることになったとは……。改めて振り返ってみると、大海人の勝利は必然だったとも言えそうです。ちなみに、奈良県内に壬申の乱にまつわるスポットはありますか?

相原先生

吉野宮(よしののみや)が有名ですね。2018年に、奈良県吉野町の宮滝遺跡で大きな建物跡が見つかりました。ここは、大海人が隠棲した吉野宮ではないかと考えられていますし、奈良時代には聖武天皇も足を運んでいます。

吉野 宮滝遺跡

▲大海人皇子が隠棲していたとされる奈良県の吉野。宮滝遺跡

編集部

近江朝廷側はどうでしょう?何か遺跡は残っているのでしょうか?

相原先生

大津宮は現在の滋賀県・錦織(にしこおり)にあったとされていますが、いまは住宅地になっています。近江神宮は天智天皇を祀っていて、併設の時計博物館には天智天皇が作った水時計の再現があります。こういった場所を訪れると、壬申の乱の時期の日本の風景に思いを馳せることができるのではないでしょうか。

編集部

相原先生ありがとうございました!後編では、壬申の乱後の動向や歴史的意義についてお聞きしたいと思います。引き続きよろしくお願いいたします!

相原嘉之教授
PROFILE

相原 嘉之
奈良大学准教授

1967年、大阪市に生まれる。1990年、奈良大学文学部文化財学科卒業。奈良国立文化財研究所飛鳥・藤原宮跡発掘調査部、滋賀県文化財保護協会、明日香村教育委員会文化財課長を経て、現在奈良大学文学部文化財学科准教授。博士(文学、奈良大学)主な著書に「飛鳥・藤原の宮都を語る」「古代飛鳥の都市構造」「飛鳥と斑鳩」「蘇我三代と二つの飛鳥」などがある。

1967年、大阪市に生まれる。1990年、奈良大学文学部文化財学科卒業。奈良国立文化財研究所飛鳥・藤原宮跡発掘調査部、滋賀県文化財保護協会、明日香村教育委員会文化財課長を経て、現在奈良大学文学部文化財学科准教授。博士(文学、奈良大学)主な著書に「飛鳥・藤原の宮都を語る」「古代飛鳥の都市構造」「飛鳥と斑鳩」「蘇我三代と二つの飛鳥」などがある。