“歴女”として知られるタレントの山崎怜奈さんは、自身がMCを務める歴史番組や数々のクイズ番組で存在感を発揮するなど、「(歴史が)好き」というパワーを武器に競争の激しい芸能界で活躍する慶應義塾大学卒の才女です。一方、持統天皇も権力闘争の激しい飛鳥時代の朝廷内で女帝として生き抜き、律令の制定や戸籍の整備など、数々の偉業を成し遂げてきた女性として知られます。一見するとタイプの異なる二人ですが、ともに“厳しい世界を生き抜く女性”という共通点も。
そこでこの特集コンテンツでは、そうした共通点をベースに、山崎さんが自身の人生を拓いていくうえで「共感した」「参考になった」「憧れた」と感じた持統天皇のすごいエピソードを3つピックアップ。それらがどのようにして実践されていったのかを、持統天皇の専門家として知られる瀧浪貞子先生にお聞きします。山崎さんの優れた質問力により、持統天皇の卓越した政治手腕や処世術、そして文化人としての才能の原点が明らかになりました。
今回お話を聞かせてもらったのは、『持統天皇 壬申の乱の「真の勝者」』などの著書がある古代史研究の第一人者である瀧浪貞子先生。『日本古代宮廷社会の研究』で文学博士号を取得されています。豊富な知識をもとに、持統天皇が生きた時代の社会情勢から政治の実情までレクチャーいただきました。
天智天皇の子として誕生して以来、白村江の戦いや壬申の乱に関わり、夫・天武天皇の遺志を受け継いで古代国家を形作った女帝・持統天皇の実像に迫る一冊。
1997年5月21日生まれ、東京都江戸川区出身。2020年、慶應義塾大学卒業。2013年に乃木坂46二期生として芸能活動を開始し、昨年7月にグループを卒業。歴史好きのタレントとして知られ、歴史研究の第一人者と対談した『歴史のじかん』(幻冬舎)などの著書がある。好きな歴史上の偉人は、坂本龍馬と渋沢栄一。2020年には世界遺産検定2級も取得している。
持統天皇は自分の子どもや孫をひときわ大切にするなど、自身の周りの人々への思いが人一倍強い女性だったといわれています。こうした持統天皇の思いには、山崎さんもファンに対する感謝の気持ちや乃木坂46時代のメンバーへの思いなどを通じて、強く共感するところも多いそう。そこでまずは、持統天皇が夫である天武天皇とわが子の草壁皇子への一途な思いが生まれることになった壬申の乱から紐解いていきます。
そもそも、なぜ、持統天皇は自分の子どもや孫を天皇にしたかったのでしょうか。
夫である天武天皇(※)の理想とする政治を後世においても実現できるように、自身と天武天皇の血脈を残したいと考えたためです。持統天皇がそうした考えに至ったのは、壬申の乱を苦難の末に勝ち抜いたことがきっかけでしょう。壬申の乱では、持統天皇(本名は鸕野讃良(うののさらら)皇女)と天武天皇(本名は大海人皇子)が吉野からわずか数人で挙兵し、戦いに勝利したのです。それまでの皇位は兄から弟へと継承するのが一般的でしたが、苦楽を共にした夫との一粒種、草壁皇子(※)を次期天皇にさせたいという思いは、戦いの過程で強まったはずです。
壬申の乱を通じて、持統天皇は草壁皇子への情が強まったのですね。とはいえ、当時は皇位継承者は何人かいたはずです。草壁皇子を天皇にするために、持統天皇はどのような行動に出たのでしょうか。
例えば、天武天皇と皇后の持統が皇子たちと吉野で交わした「吉野の盟約」が、草壁皇子を皇位継承者に仕立てるためにとった代表的な施策です。草壁皇子が天武天皇の後継者であることを事実上宣言し、明確な皇位継承者として周囲に知らしめる意味がありました。ミヤコがあった飛鳥ではなく、吉野が舞台に選ばれたのは、壬申の乱の出発・挙兵の地だからです。2人が吉野をいかに重視していたのかが、よくわかりますね。
持統天皇は草壁皇子の即位に向けて奔走したのですね。しかし、天武天皇の妻である自身にも皇位継承権はあるわけですよね。自分が天皇になるという考えは初めからあったのでしょうか。
持統天皇は当初、自分が即位するつもりは全くありませんでした。女帝は政治的に、あるいは皇位継承に問題が生じた時に即位する立場だったからです。天武天皇は、あくまでも草壁皇子の即位を願っていたのです。「吉野の盟約」の2年後、20歳になった草壁皇子は皇太子になりました。それで順調にいくかと思われましたが、5年後に天武天皇が亡くなります。本来ならこのタイミングで草壁皇子が天皇になれればよかったのですが、まだ25歳。当時は30歳以上でなければ即位できないという慣習があったのです。そこで、持統天皇は自身が天皇の代行(称制(※))をして時間を稼ぎ、5年後に草壁皇子を即位させる計画を立てたのですが、悲運にも草壁皇子までもが28歳という若さで亡くなってしまうのです。
▲明日香村には現在も持統天皇が生きた時代の史跡が残る。写真は日本最古とされる仏像、飛鳥大仏が安置される飛鳥寺の遠景。
持統天皇は草壁皇子の死にショックを受けたでしょうし、目論見がすべて狂ってしまったわけですね。
ここでくじけないのが持統天皇です。方針を切り替え、孫の軽皇子(※)に皇位を継がせることを考えました。しかし、7歳でしたから即位できるのはだいぶ先の話です。そこで、持統天皇は自身が即位することを決めたのです。称制から即位への切り替えです。以前の女帝には見られなかったことですが、これは藤原不比等(※)の協力がなければ実現できなかったでしょう。その後、軽皇子が15歳で元服したとき、持統天皇は草壁皇子の二の舞を避けるため、史上初めて生前に譲位を行い太上天皇(上皇)になりました。そして軽皇子は文武天皇として即位し、持統天皇は太上天皇(上皇)としてその政治を支えたのです。
持統天皇といえば政治を他人任せにせず、自ら決定していたといいます。当時は女帝の権限は大きかったのでしょうか。
持統天皇以前に、女性天皇として即位した推古天皇(※)や皇極天皇(※)にも補佐役はいましたが、最終的な政務決定を行うのは女性天皇自身です。まったくの傀儡(かいらい)ではなく、それなりの権限は持っていました。ちなみに、持統天皇がこれまでの女帝と違う点は、なんといっても天武天皇が理想とした政治体制を実現したいという強い意志があったことで、それが行動の原点になっています。すべては夫と苦楽を共にして勝利した壬申の乱にさかのぼることができるといえます。
持統天皇は壬申の乱で挙兵した地、吉野への行幸(※)を繰り返していますが、それも政治的な意味合いが強かったのでしょうか。
吉野への行幸は壬申の乱で挙兵した6月や草壁皇子の命日月である4月、吉野の盟約を交わした5月など、ほとんどが持統天皇にとって重要な意味のある月に出かけています。持統天皇は行幸の中で天武天皇や草壁皇子を偲んだことでしょう。同時に、修験の地であり霊力が宿るとされる吉野に身を置いて自身を鼓舞する一方、世間に対しては天武天皇の継承者であることを誇示する意味もあったのだと思います。
持統天皇の強気なイメージも、実は天武天皇の遺志の実現のためにあったのですね。天武天皇が思い描いた理想の国家を作るために奔走する姿を思い浮かべると、その一途な思いに胸を打たれてしまいます。
自身に反発し謀反を企てかねない大津皇子を捕らえたり、周囲の反対を押し切って藤原京への遷都を成し遂げるなど、持統天皇は理想の政治を追求するために思い切った決断を重ねています。そうした持統天皇の政治手腕には、厳しい芸能界を生き抜く山崎さんも参考になる部分があると言います。次は山崎さんが関心を抱いているという持統天皇の行動力にフォーカス。反感を恐れずに、大津皇子を自害に追い込むなど、持統天皇のたぐいまれな行動力の原点を浮かび上がらせます。
持統天皇は大津皇子(※)に謀反の疑いをかけ、捕らえています。それは持統天皇に何か狙いがあって行ったことなのでしょうか。
草壁皇子を皇位に就けるためには、大津皇子が障害になると考えたのでしょう。壬申の乱の真っただ中、持統天皇は草壁皇子(11歳)や大津皇子(10歳)らと2か月間生活を共にしました。その中で大津皇子がいかに優れた皇子なのかを知って嫉妬心を抱き、時には脅威すら感じたのではないでしょうか。といっても、天武天皇が生きているときには、それほど意識していなかったと思います。天武天皇は草壁皇子を皇太子にし、大津皇子はその補佐として育てたかったようですから。
天武天皇という後ろ盾を失ってから、もともと素質があった大津皇子の存在感が増してしまい、このままでは草壁皇子の即位が難しいと感じたのかもしれませんね。
その可能性は大きいと思います。大津皇子は、文武両道に優れ、人望も厚く、さらにはイケメンであったように思います。というのも、2人の皇子から歌を贈られた女性が返歌したのは大津皇子に対してだけで、その歌のやり取りが「万葉集」に収められているからです。対する草壁皇子はお坊ちゃんで大人しく、残された歌もいたって平凡。力の差は歴然だったでしょう。
ということは、草壁皇子に皇位を継承するのは至難の業だったのですね。しかし、持統天皇は目的の達成のためには手段を選ばないイメージがあります。例えば、草壁皇子は天皇にはなれませんでしたが、皇太子にするまでは成功しています。こうした剛腕な政治手法は、どのようにして生まれたのでしょうか。
先ほどお話ししたように、持統天皇の政策のすべては、天武天皇の遺志を継ぐ目的で行われています。天武天皇への一途な思いが、剛腕な政治に結び付いたのだと思いますよ。例えば、持統天皇が伊勢行幸をしようとした際は、農作業の時期だったため臣下が再三中止を要請しています。にも関わらず、持統天皇はこれを振り切って出かけています。その理由は、現地に壬申の乱で味方についてくれた豪族がいたためですが、こうした慰問は天武天皇が望んでいたことでもあるのです。
持統天皇によって690年から造営が再開され、わずか4年後に成し遂げられた藤原京(※)への遷都も、天武天皇の悲願だったそうですね。
天武天皇は大規模な都を造営し、中央集権国家を目指したのです。こうした新しい国家体制は、天武天皇の死によって志半ばで中断していました。そうした悲願を達成すべく、持統天皇は藤原京への遷都を推進したのです。
▲藤原宮跡を空撮すると、かつての碁盤の目状の都市の様子がわかり、天皇が儀式や政治を行った大極殿の基壇なども発掘されている。近年の研究によれば、平城京などを超える規模の都市だったという説もある。
藤原京は天武天皇が構想していた都市で、持統天皇によって完成しました。それまでの都にはなかった、特徴的な部分はありますか。
まず、天皇の住む宮城を中心に置き、周囲に豪族が住む市街地を整備しました。これまで豪族は各々の本拠地に住んでいたのですが、天皇のお膝元に移住させたのです。また、宮城には国家の儀式を行う場所も設けられており、それが朝堂院で、宮城の中心的な建物です。その正面に設けられたのが大極殿で、即位式等が行われました。
主要な建物を瓦葺きで造営したのも特徴です。それまで瓦を使った建物といえば寺院の伽藍だけでした。藤原京は唐の長安城を参考にした斬新かつ画期的な都で、人々の目にはさぞや荘厳に映ったことでしょう。「新益京(あらましのみやこ)」(新たに益した京)と呼んだところに人々の驚きや期待が込められています。藤原京を見ると、天武天皇が構想した中央集権国家の姿をイメージすることができます。
草壁皇子を天皇にすること、そして藤原京の遷都。いずれも天武天皇が実現させたいと思っていたことでした。草壁皇子の即位はかないませんでしたが、遷都という一大事業を成し遂げた持統天皇の行動力には思わず感服してしまいます。
天武天皇の遺志を受け継いだ政治手腕だけでなく、寺院や神社の整備、『万葉集』の編纂など、持統天皇は政治家としてだけでなく、文化人としても優れた女性でした。歴史を中心に幅広い分野で教養を身につけている山崎さんは、現代で言うマルチタレントのような才能を持つ持統天皇に憧れる側面もあると言います。最後は持統天皇が詠んだ和歌や信仰心を物語る逸話に焦点を当て、後世に与えた文化人としての影響を紐解いていきます。
持統天皇は生涯にわたって、さまざまな事業に取り組んでいます。先生が特に注目されるものは何でしょうか。
やはり、『万葉集』(※)の編纂でしょうね。持統天皇はなぜ、歌集を作ろうと思ったのでしょうか。それは、歌で天皇家の歴史を綴ること、もっとはっきり言えば、持統天皇家の歴史を伝えようとしたのです。天武天皇の歴史書の編纂と一連のもので、歌の力で天武天皇、草壁皇子、文武天皇と繋がった血脈継承の正当性を残そうとしたのが持統万葉のはじまりでした。その後にさらに約1世紀かけて整えられ、完成したと考えられるのが、現代に伝わる『万葉集』なのです。
『万葉集』には持統天皇の和歌も収められていますね。当時の歌人と比較して、その腕前はいかほどのものだったのでしょうか。
持統天皇は教養人であり、歌のレベルは決して低くはありません。ただ、純粋に情景を詠んだというよりは、それぞれの歌には天皇としての自覚や決意を盛り込んでいるため、多様な評価ができるといえます。持統天皇の歌「春過ぎて 夏来るらし 白妙の 衣干したり 天香具山」は有名ですね。私はこの「衣」には「禊の浄衣」という意味も含まれ、草壁皇子の殯(もがり)を終えた持統天皇が、これからは自分が天皇としてやっていくという並々ならぬ自身の決意を詠んだのだと考えています。
持統天皇は仏教に帰依し、その教えを学ぶなど、信仰心も強かったといわれます。その思いが伺える逸話はありますか。
持統天皇は歴代天皇で初めて火葬された人物です。当時は土葬が主流で、埋葬までの間、仮安置(殯(もがり))されました。霊魂を畏れると共に、死者が復活するという考えがあり、天皇の霊を次の天皇が受け継ぐという意味もあったのです。ところが、仏教では新しい世界に生まれ変わるという考えがあるため、火葬なのです。持統天皇は生前、僧侶の道昭(※)に帰依していました。道昭は、わが国で初めて火葬された人物で、それに倣って火葬を願ったようです。持統天皇が道昭から仏教の思想を深く学んでいたからこそ、火葬することを強く望んだものと思います。
▲天武天皇と持統天皇の合葬墳である天武・持統天皇陵は、現在の近鉄飛鳥駅から徒歩で15分ほどの地点にある小高い丘に造営された。石段を上った先に陵墓がある。
先生のお話を聞いて、持統天皇がさまざまな事業を成し遂げただけでなく、文化人としても優れた人物であったことがよくわかりました。先生は、持統天皇の生き様からどのようなことを感じますか。
持統天皇は幼いころに祖父が自害に追いやられ、母もそれを悲しんで早く亡くなり、寂しい少女時代を送りました。そして、白村江の戦い(※)や大津京(※)への遷都などでも心労を重ね、挙句の果てに壬申の乱も経験しました。酸いも甘いも体験し、晩年は夫の天武天皇の遺志を継ぐ姿勢を貫き通した、非常に強い女性だと思います。
波乱万丈な人生を懸命に生き抜き、自らの理想に向かって努力を重ねた持統天皇には、私も勇気づけられます。
持統天皇は約1300年余り前に生きた女性ですが、現代人も学ぶべきところは多いと思いますよ。確かにその生き様には賛否ありますよね。良いと捉えるか、悪いと捉えるかは人それぞれで、その判断は皆さんの考えに委ねたいと思います。ただ、持統天皇の生涯を辿ることは意義深いでしょう。今日の私たちにとって、人生とは何か、夫や子どもはどういう存在なのかといった普遍的なテーマを深く考える機会になると思います。
持統天皇については、強引な性格ばかりが独り歩きしてしまい、あまり良い印象を抱かれていないイメージが根強くあります。しかし、瀧浪先生のお話を聞いてイメージが180度変わりました。強いリーダーシップをもって古代国家の骨格を作った女性であり、高い教養を身に着けた文化人でもある。私たちが学ぶことはたくさんありますね。今回はありがとうございました。
目的のために手段を選ばないことから、しばしば悪女と評されることもある持統天皇ですが、その見方を変えると、すべての行動の根底には夫である天武天皇への一途な思いがあったことがわかります。そして、その巧みな政治手腕や処世術によって、数々の事業が成し遂げられ、古代日本の国家像が形成されたのです。黎明期の日本を自らの手で開拓していった持統天皇の生き様は、混迷する時代に生きる私たちに勇気を与えてくれるのかもしれません。