聖徳太子伝説は嘘?妃と斑鳩の日々から考える聖徳太子の意外な人物像 聖徳太子伝説は嘘?妃と斑鳩の日々から考える聖徳太子の意外な人物像

こんにちは!奈良県「なら記紀・万葉プロジェクト」編集部です。
聖徳太子の功績や人物像について、前後編に分けてご紹介する今回の連載。

前半では、太子の功績を振り返りながら、政治家「聖徳太子」の実像について、日本考古学、文化財学が専門で飛鳥時代の歴史に詳しい奈良大学准教授・相原嘉之(あいはらよしゆき)先生にお伺いしました。

後半は、晩年の暮らしや家族との関係の他、「聖徳太子は存在しなかった」の真相など、太子の人物像や人柄に迫ります。

聖人のように語られる聖徳太子ですが、実際はどんな人物だったのでしょうか?

4人の妃。なぜ聖徳太子は、政治的な影響力の弱い「膳妃」を愛したのか?

編集部

相原先生、今回は家族との関係や人柄など、等身大の聖徳太子像について、そしてその存在の有無について深堀りしていこうと思います。引き続きよろしくお願いいたします。

相原先生

こちらこそ、よろしくお願いします。

編集部

まずは、家族関係について聞かせてください。太子には妃が4人いたと言われていますよね?どんな方々だったのでしょうか?

相原先生

名前がややこしいのですが……(笑)「膳部菩岐々美郎女・刀自古郎女・菟道貝蛸皇女・橘大郎女の4人(※)」ですね。

(※)聖徳太子の妃たち
・膳部菩岐々美郎女:地方豪族・膳氏(かしわでうじ)の娘
・刀自古郎女:蘇我馬子の娘
・菟道貝蛸皇女:敏達天皇・推古天皇夫妻の娘
・橘大郎女:敏達・推古夫妻の孫
編集部

皇族や蘇我氏の血を引く、錚々(そうそう)たるお妃さんたちですね……!やはり政略結婚だったのでしょうか?

相原先生

当時のことですから、誰と結婚して子どもを産むのかという点も政治の重要なポイントです。政略結婚がほとんどだと思いますね。

編集部

現代の感覚からしたら信じられないことですが、これが当たり前だったのですね……。ちなみに4人妃がいるわけですが、この中にランク分けのようなものってあるのですか?

相原先生

ランク分けという明確なものはなかったと思いますが、太子が最も愛したのは「膳部菩岐々美郎女(以下、膳妃)」だと言われています。

編集部

なるほど。太子が膳妃(かしわでのきさき)を愛した理由はわかりますか?

相原教授
相原先生

なぜ愛したのかは今のところわかっていません。ただ、おもしろいポイントは、この4人の中で政略という意味がもっとも弱いのが「膳妃」だということです。その他の3人は、天皇の娘・孫や蘇我氏の血筋ですので、政治的な意図があるとはっきりしています。しかし、膳妃だけは、地方豪族の娘という政治的な価値があるかどうかわからない人物なのです。

編集部

確かに……!

相原先生

他の3人は政治的な理由で半強制的な婚姻関係だったと思うのですが、膳妃だけには心を開いていたのではないかと。太子の墓には、母の穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)と膳妃の3人が葬られていますが、明らかに他の妃よりも思い入れが強いように感じます。これは憶測なのですが、太子は純愛に生きるような、ピュアな部分を持ち合わせていたのかもしれません。

編集部

太子に親近感を覚えました(笑)

相原先生

そうなんです(笑)さらに、真偽のほどは定かではないのですが、膳妃が亡くなった翌日に太子も後を追うように世を去ったといわれています。

編集部

翌日に……!それは偶然なのでしょうか?

相原先生

詳細は分かりませんが、自害などではなく病が原因のようです。法隆寺金堂(※)にある釈迦三尊像の背面に銘文があり、太子の母が亡くなったあと、膳妃、続いて太子が亡くなったと記されています。

(※)法隆寺金堂
法隆寺の境内にある。金堂、五重塔を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とした東院伽藍に分けられる。
編集部

なにか運命的なものを感じますね。寂しさや悲しさで気力を失って、病に侵された身体がこと切れた……という感じでしょうか。政治家としての功績だけでなく、そんなせつないエピソードがあったことに驚きです。ちなみに、子どもはいたのですか?

相原先生

膳妃との間にも子供がいたようですが、一番有名なのは膳妃ではなく、刀自古郎女との息子・山背大兄王(やましろのおおえのおう)でしょう。山背大兄王は有力な皇位継承者でしたが、蘇我入鹿(※)に襲われ、自刃します。それにより太子の一族は滅びてしまいます。

(※)蘇我入鹿
蘇我蝦夷の子ども。大臣として大和朝廷の有力者であった。山背大兄王のいとこにあたる。乙巳の変において討たれ、その後蘇我氏が凋落するきっかけとなった。
編集部

権力争いから、凄惨な最期になってしまったのですね……。

相原先生

この頃は推古天皇、蘇我馬子らが続けて亡くなったため、世代交代の時期でした。蘇我馬子の子、蝦夷と孫の入鹿は自分たちに近い田村皇子(たむらおうじ)を舒明(じょめい)天皇として即位させていました。推古天皇にも近い血筋で、太子の息子である山背大兄王が力をつけるのを恐れたのでしょう。その後、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)、中臣鎌足(なかとみのかまたり)らによる乙巳の変で蘇我氏も滅ぼされました。

編集部

飛鳥時代の大きな転換点に、太子の一族も蘇我氏の一族も滅んでしまったのですね……。もしかすると、太子は血みどろの権力闘争に疲れ、政治的なしがらみのない膳妃との暮らしを求めていたのかも。

しがらみのない平穏な暮らしを求めた?聖徳太子、飛鳥から斑鳩へ

▲斑鳩の風景

編集部

話は戻りますが、晩年、聖徳太子は斑鳩(※)に住んでいます。この移住にも、膳妃が関わっているのですか?

(※)斑鳩「いかるが」
奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺を中心とした地域。聖徳太子が移り住んだ「斑鳩宮(※法隆寺の隣接地の宮殿)」があった。
相原先生

太子が飛鳥から離れて斑鳩に移ったことについては謎が多いですが、理由のひとつとして膳氏が挙げられています。膳妃は地方豪族、膳氏の娘ですが、父親が支配していた地域が斑鳩なのです。当時の都心だった飛鳥とは距離があるので、膳妃のふるさとに近い場所で、家族でゆったりと暮らしたかったのかもしれません。

編集部

膳妃との関係についてのお話を聞くと、そんな気がしてきますよね。他の理由にはどのようなものがあるのでしょうか?

相原先生

斑鳩は交通の要所で難波への入口にあります。斑鳩は、現在の大阪府・柏原市との境目に位置し、大和川にも近く、陸路も水路もあるわけです。飛鳥にも難波にもアクセスの良い土地だったため、斑鳩を選んだという説もありますね。都心の飛鳥に対しての斑鳩は副都心のような立ち位置だったのかもしれません。

編集部

なるほど。太子は605年に斑鳩に移り住んでいますが、暮らしぶりはどんな感じだったのでしょう。605年と言えば、十七条憲法が出された翌年ですが、すでに隠居のような生活だったのですか?

相原先生

仏教にのめり込んでいたのか、家族でゆったり暮らしていたのか、何をしていたのかははっきりと分かっていません。ただ斑鳩と飛鳥の間には太子が往来したとされる「太子道(※)」が残っています。斑鳩にある宮殿で家族と暮らしながら、政治にも携わっていたことは確かです。

▲法隆寺西院伽藍

(※太子道)
奈良県生駒郡斑鳩町から橿原市に至る街道。聖徳太子がこの道を通っていたことから名づけられ、筋違道とも呼ばれる。現在でも奈良盆地の中央部を斜めに通る古道の痕跡が残されている。
編集部

膳妃との関係や一族滅亡の話を聞くと、斑鳩での暮らしが平穏なものであってほしいと感じますね……。ちなみに、太子の晩年の仕事として『国記・天皇記』の編纂を耳にしますが、どのような書物だったのでしょう?

相原先生

どういう内容だったのかは実はよく分かっていないんです。というのも、蘇我氏の滅亡と同時に大部分が焼失してしまったためです。ただ、タイトルから考えると『天皇記』は天皇家の歴史を書き留めたもの、『国記』は地方の地誌で、後の『風土記(ふどき)』に近いものではないかと考えられています。その後の『古事記・日本書紀』にもつながる仕事ではあったのでしょう。

聖徳太子=厩戸皇子。「聖徳太子はいなかった」の答えとは?

編集部

先生のお話をお聞きして、太子のイメージがだいぶ変わりました。人間離れした聖人のようなイメージだったので、かなり驚きました……。ちなみに「聖徳太子は実在しなかった」という説がありますよね?この説に対して、相原先生はどのように感じていますか?

相原先生

太子の別の呼び名「厩戸皇子(うまやどのおうじ)」は実在したとされています。ただ、私たちが現在耳にする伝説、たとえば「生まれてすぐにしゃべった」「10人の話を同時に聞き分けられた」などは、奈良時代以降につくられたものだと考えられています。スーパーマンではないけれど、聡明な人物だったのでしょう。

相原教授
編集部

実在してくれて少しホッとしました(笑) どうして、そのような伝説ができたのでしょうか?

相原先生

太子は、時代に合わせてさまざまな解釈をされてきた人物です。天皇を頂点としたムードでは重宝されますが、それ以外の時代では冷遇されるなど、時代ごとに評価ががらりと変わっています。そんな時代の変遷の中で、太子を語る人によって上記のような伝説や逸話が付けられたようですね。

編集部

歴史に名を残す優秀な政治家であることは間違いないようですが、いわゆる伝説は後付けだった可能性が高いのですね。

相原先生

太子というと、知的で清廉潔白なイメージですよね。前半の記事でも解説しましたが、それは太子が推古天皇のもとでプランナーとして知略面で活躍していたからかもしれません。実働部隊だった蘇我氏には悪者のイメージを持っている方が多いと思うのですが、実際は太子と同様の評価をもらってもおかしくありません。二人とも先見の明がある優秀な政治家であったことは事実です。太子も蘇我氏も、視点の置きどころや時代によって今後も評価は変わっていくでしょう。

聖徳太子を偲ぶなら、まずは法隆寺へ

編集部

相原先生、いろいろとありがとうございました。最後に、太子ゆかりの地、斑鳩でおすすめのスポットはありますか?

相原先生

やはり法隆寺でしょうね。法隆寺の西院にある伽藍の金堂には、「太子の原寸大の像(釈迦三尊像)」がありますから、会いに行かれるのもよいかもしれません(※)。そして東院の夢殿の地は、太子が住んでいた斑鳩宮の跡地です。

(※)詳細はHPをご確認ください。

聖徳宗総本山 法隆寺:http://www.horyuji.or.jp/

▲法隆寺東院伽藍(夢殿)

(※)夢殿
聖徳太子の斑鳩の宮の跡。朝廷の信任厚かった高僧行信(ぎょうしん)が宮跡の荒廃ぶりを嘆いて、太子供養の伽藍の建立を発願し、748年に建立された。太子信仰の聖地と言われる。
編集部

膳妃との関係や暮らしなど、今日のお話を知ってから行くとより感慨深いですね……!夢殿や原寸大の像を挙げていただきましたが、その他の魅力はどんなところでしょうか?

相原先生

古代から続くお寺は、人が集まりやすい厄除け信仰に変えるなど、建立された当時とは思想が入れ替わっている場合が多いんですね。そんな中、法隆寺は信仰が変わることなく存続している稀有なお寺で、太子とその家族が作り上げた斑鳩には、太子信仰が今もそのまま残っています。飛鳥時代を生きた太子の遺志を感じられる場所なので、ぜひ訪れてみてほしいですね。また、太子ゆかりの「法起寺(※)・法輪寺(※)」を訪れるのもおすすめです。

(※)法起寺「ほうきじ」
聖徳宗の寺院。「法隆寺地域の仏教建造物」の一部として世界遺産に登録されているお寺。太子御建立七ヵ寺のひとつに数えられます。
(※)法輪寺「ほうりんじ」
法隆寺・法起寺とともに「斑鳩三塔」に数えられるお寺。太子ゆかりの地として知られる。
編集部

相原先生、今回は太子について詳しいお話をありがとうございました。最後に太子に興味を持った方にメッセージをお願いいたします。

相原先生

これからも太子のイメージは変わっていく可能性はありますが、太子の足跡は今も奈良県のたくさんの地域に確かに残っています。太子が気になった方は、ぜひ飛鳥や斑鳩の地を訪れてみてください。

相原嘉之教授
PROFILE

相原 嘉之
奈良大学准教授

1967年、大阪市に生まれる。1990年、奈良大学文学部文化財学科卒業。奈良国立文化財研究所飛鳥・藤原宮跡発掘調査部、滋賀県文化財保護協会、明日香村教育委員会文化財課長を経て、現在「奈良大学文学部文化財学科」准教授。博士(文学、奈良大学)主な著書に「飛鳥・藤原の宮都を語る」「古代飛鳥の都市構造」「飛鳥と斑鳩」「蘇我三代と二つの飛鳥」などがある。

1967年、大阪市に生まれる。1990年、奈良大学文学部文化財学科卒業。奈良国立文化財研究所飛鳥・藤原宮跡発掘調査部、滋賀県文化財保護協会、明日香村教育委員会文化財課長を経て、現在「奈良大学文学部文化財学科」准教授。博士(文学、奈良大学)主な著書に「飛鳥・藤原の宮都を語る」「古代飛鳥の都市構造」「飛鳥と斑鳩」「蘇我三代と二つの飛鳥」などがある。