はじめまして!奈良県「なら記紀・万葉プロジェクト」編集部です。
突然ですが、日本という国がいつできたかご存知ですか?
卑弥呼が現れたとき—
大和朝廷が成立したとき—
日本の初代天皇「神武天皇」が即位したとき—」
見方によって見解はさまざまですが、現在に直接つながる「法治国家の成立」という視点で考えると、「大宝律令(※)が制定された飛鳥時代(※)」に答えを見出せます。
飛鳥時代は、国を統治するための制度・法律が日本の歴史上はじめて生まれた時代です。そして、飛鳥時代の国造りにもっとも大きく貢献した人物の一人が「聖徳太子」。
「10人の話を同時に聞き分けながら返答できた」など、人間離れした逸話でおなじみの聖徳太子ですが、その実像は法治国家の成立を目指して奮闘した、偉大な政治家だと言われています。しかし、「太子は存在しなかった」などの説もあるほど、聖徳太子はその存在が謎に包まれている人物でもあります。
聖徳太子の本当の功績とは何なのか—
聖徳太子はどんな人物だったのか、そもそも本当に実在したのかー
この記事では、前後編に分けて、日本考古学、文化財学が専門で飛鳥時代の歴史に詳しい奈良大学准教授・相原嘉之(あいはらよしゆき)先生に、聖徳太子の政治家としての手腕や人物像をお伺いしました。(以下、「相原先生」)
前編の今回は、聖徳太子の政治家としての歩みを振り返り、その功績に迫ります。
▲相原准教授
相原先生、はじめまして。本日はよろしくお願いします!まず、太子の功績について教えていただけますか?学校では「冠位十二階(※)」や「十七条憲法(※)」を制定した人……と習いましたが、実際はどのような功績をあげた人物なのでしょうか?
こちらこそよろしくお願いします。難しいのは、それを太子一人の功績としていいのか……というところです。『日本書紀』には十七条憲法、仏典の講義と注釈の編纂は太子の功績とありますが、冠位十二階の制度は太子か蘇我馬子(※)か、どちらが行ったのか明確に書かれていないのです。
そうなんですか!?
聖徳太子が活躍した時代の日本のトップは推古天皇です。その下に蘇我馬子と聖徳太子がいわばツートップで補佐していました。太子と馬子は同じ目的のために、別の役割で動いていたのではないかと考えられます。
別の役割……?詳しく聞かせてください。
どうやら「太子=皇族・摂政(※)」「馬子、蘇我氏=豪族(※)・大臣(※)」となっており、太子は政策を考える人、馬子を含めた蘇我氏は、政策を実行に移した人という役割分担になっていたのではないかと。
摂政である太子が国づくりのための政策を考え、有力な豪族で大臣の馬子が、各地域の豪族を束ねて政策を実行した」という感じでしょうか?企画を考えるプランナーと、それを実行するディレクターのような関係ですね。
【聖徳太子と蘇我馬子の関係】
ですので「太子はどのような功績を残した人物なのか?」という問いに戻ると、「政策を考える人ではあったけど、功績のすべてを一人で実行したとは言えない」ということになります。
なるほど。実は太子一人の功績ではなくて、優秀な実行者がいたと。ちなみに、馬子と太子はどのような関係だったのでしょうか?
太子は「穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)」と「用明(ようめい)天皇」の子で、母親の穴穂部間人皇女は蘇我氏の血を引いています。つまり、太子と馬子は血のつながった親戚同士だったということです。推古天皇の時代は蘇我氏が「大臣」、聖徳太子が「摂政」という関係で政治を率いていました。
太子の功績は「実は馬子とのタッグで確立したものだった」ということがわかりました。より詳しく聖徳太子の政治家としての実像についてお聞きしたいのですが、相原先生は太子の功績で一番大きなものは何だったと考えていますか?
太子が行った政策として、もっともインパクトがあったのは「遣隋使(※)」だと思います。当時、聖徳太子も蘇我馬子も、国内だけでなく東アジアの情勢に関心がありました。当時の東アジア情勢を考えると、最大の帝国であり、影響力の強かった隋との「外交をはじめた」という功績は外せません。
隋との国交は当時なかったのですか?
それまでは朝鮮半島にあった国「百済(くだら)」を通じた国交がほとんどで、直接の交流は5世紀の雄略天皇の時代までさかのぼります。民間レベルでは「渡来人(※)」から知識・技術を得ていました。ただ、隋との公式の直接交流、国際外交はできていなかったと言われています。飛鳥の朝廷が日本という国をつくりあげていくためには、当時最先端の文化や政治制度を持っていた隋との外交が必要不可欠でした。
当時の日本と中国はそれほど大きな差があったと。
当時の中国・隋の都を見た使節の人々は大変な衝撃を受けたようですね。当時の日本はまだ呪術的な政治システムでした。それに比べて隋は法治国家で、官僚制度もきちんとしていたし、大きな道も整備されていた。かたや当時の日本は、使節団の礼儀もなっていなくて、隋にはこっぴどく言われたようです。西暦600年の遣隋使があったから、太子は日本がいかに遅れているかを実感できたと言えますし、国づくりのために必要なことを学べたのです。
だからこそ、先生は遣隋使を太子の最大の功績だと考えるのですね。確かに、太子のさまざまな功績は遣隋使の直後の600年代前半に固まっています。
その通りです。遣隋使が帰国したあとに身分制度(冠位十二階)・法律(十七条憲法)をつくる動きが始まりました。宮殿がつくられ、大きな幹線道路も整備された。遣隋使で学んだことを「冠位十二階・十七条憲法などの制度、宮殿・道路などのインフラづくり」という形でアウトプットしたのです。遣隋使がなければ、太子の功績のほとんどは生まれなかったでしょうし、日本が法治国家として成立するのも遅れていたかもしれません。
太子は馬子とともに、さまざまな政策を実行していくわけですが、その最たるものが、先ほどから何度も触れている冠位十二階と十七条憲法です。それぞれどのような制度だったのでしょうか?
まずは冠位十二階について説明しましょう。この制度は、「徳・仁・礼・信・義・智」の6種を大小2つに分けた12階の冠位制度のことです。当時は「氏姓制度(※)」と呼ばれる身分制度が支配的でした。冠位十二階は隋の官僚制度を参考に、それまでのしがらみを超えて広く人材登用する狙いがありました。
隋から学んだことを直接的に活かして生まれた「新しい身分制度」という感じでしょうか。
氏姓を重要視していたそれまでの日本にはなかった考え方ですね。この制度がきっかけで「同族や家柄だけを見るのではなく、能力や人柄を吟味して人材を登用しよう」という考え方ができるようになりました。
続いて、十七条憲法について教えてください。
十七条憲法は天皇を頂点とした序列や仏法僧を敬うこと、有名な「和を以て貴しとなす(※)」のフレーズなど、官僚の心構えのようなことが書かれたものです。天皇を頂点とした序列を守ること、争いはやめて調和することなど、国をひとつにまとめるためのスローガンともいえるような内容です。
冠位十二階も十七条憲法も、それまでの日本になかった新しい秩序を生み出した制度ですよね。「国をひとつにまとめる」という意図があったからだと思うのですが、そもそもなぜ国をひとつにまとめたいと太子は思ったのでしょうか?
国内外への影響力を強めるにはどうすればよいかを太子と馬子の二人が考えていたからです。当時は、物部氏や大伴氏といった豪族を押しのけて蘇我氏が台頭し、武力でいえば勝つものがいない時代でした。その影響力を活かしつつ、法律や官僚制度を通して国をひとつにまとめることで、諸外国と対等に渡り合える力を付けたかったのだと考えられます。
「政策を考える太子と、実行力のある馬子の二人だったからこそできた」という印象を受けます。それにしても、「外交で学び、それを政策に落とし込んで国をひとつにまとめる」と考えた太子はすごいプランナーですね……。古代にここまで先を見据えた政策を思いつくのは、ちょっと信じられません。
冠位十二階と十七条憲法によって日本は法治国家としてのスタートを切りました。もちろん馬子の存在なくしては成し遂げられたものではありませんが、「現在にも続く、政治や制度の礎を築いた」という功績は、非常に重要だと思います。
その他、太子の功績として有名なのが「仏典の講義と注釈の編纂」です。政策を考えるプランナーとして活躍しながら、仏教も広めるというのが上手くつながらないのですが、聖徳太子はなぜ仏教を広めた人物と言われているのでしょうか?
政治と仏教というと、今の感覚では全然つながりませんよね(笑)ですが、聖徳太子が仏典の講義と注釈の編纂を行ったことと、政治は無関係ではないと考えられます。
そうなのですか……!なぜ、そのように考えられるのでしょう?
隋をはじめ、東アジアの多くの地域で仏教が信じられていたからです。仏教はインドから中国を経て、朝鮮半島の百済や新羅(しらぎ)にも入っていました。中国でも仏教容認派と弾圧派に分かれていたようですが、仏教を敵に回すのは良くないという結論になり、仏教を積極的に国策に取り込みました。当時の東アジアの中では中国と仲良くしておくのが得策ですから、周辺国も仏教を介して中国と交流を図ったのです。
つまり、外交手段のひとつとして仏教を取り入れたということでしょうか?
そういう捉え方もできると考えています。そもそも、日本で仏教を積極的に取り込んだのは馬子の父、蘇我稲目(そがのいなめ)でした。太子と馬子の関係のところで述べたように、太子はそもそも蘇我氏の血を引いているので、仏教を取り入れることに違和感はなかったはずです。
血筋や諸外国との関係で見ると、太子が仏教と関わるのも不自然ではないですね。
太子は「慧慈(※)」という、高句麗(こうくり)から来たお坊さんに出会うのですが、慧慈からも「隋は官制が整った大きな国で、仏法を保護している」という言葉を受けたそうです。太子は国家のモデルとして隋を意識していたので、隋に倣って日本に仏教を普及させることに積極的だったのではないかと思います。
なるほど。そんな意図があったのですね。
国づくりの一環として仏教を取り入れたのは間違いないと思います。しかし、まったく宗教心がなかったかというと、そうではないように感じます。特に太子は、法華経を信仰し「三経義疏(※)」などの注釈を編纂したとされています。単に政治の道具として仏教を利用しただけなら、ここまでのめり込むことはないでしょう。遣隋使でも僧侶を隋に派遣させて、本場の仏教を学ばせるなどの取り組みも行っています。
「法隆寺(※)」のような素晴らしいお寺も建てていますしね。ちなみに、法隆寺の建立にはどのような意図があったのでしょうか?
▲法隆寺
法隆寺は宮殿とお寺がセットになっています。斑鳩宮と斑鳩寺(法隆寺)が並んで建てられているんです。その目的は、「先祖のため」「天皇のため」だとされています。太子がなぜ、法隆寺を建てたのかはわからないことも多いのですが、先祖の供養・天皇への忠誠・仏教の布教など、さまざまな意図が絡み合った結果だったと思われます。
ありがとうございます。前半はここまでです。政治家「聖徳太子」が現代につながる日本の国づくりを始めた人物であることが理解できました。次は、太子の人物像や存在の有無についてお聞きしたいと思います。引き続きよろしくお願いいたします!
1967年、大阪市に生まれる。1990年、奈良大学文学部文化財学科卒業。奈良国立文化財研究所飛鳥・藤原宮跡発掘調査部、滋賀県文化財保護協会、明日香村教育委員会文化財課長を経て、現在「奈良大学文学部文化財学科」准教授。博士(文学、奈良大学)主な著書に「飛鳥・藤原の宮都を語る」「古代飛鳥の都市構造」「飛鳥と斑鳩」「蘇我三代と二つの飛鳥」などがある。
1967年、大阪市に生まれる。1990年、奈良大学文学部文化財学科卒業。奈良国立文化財研究所飛鳥・藤原宮跡発掘調査部、滋賀県文化財保護協会、明日香村教育委員会文化財課長を経て、現在「奈良大学文学部文化財学科」准教授。博士(文学、奈良大学)主な著書に「飛鳥・藤原の宮都を語る」「古代飛鳥の都市構造」「飛鳥と斑鳩」「蘇我三代と二つの飛鳥」などがある。