天武・持統天皇が残したものとは?現代日本につながる壬申の乱以降の国造り 後編 天武・持統天皇が残したものとは?現代日本につながる壬申の乱以降の国造り 後編

古代日本の最大の内乱と呼ばれる「壬申の乱」。
前編では、壬申の乱が起こった理由や大海人皇子が勝利するまでの流れについてご紹介しました。後編となる今回は、壬申の乱の影響と歴史的な意義について解説していきます。

解説は前編に引き続き、日本考古学、文化財学が専門で飛鳥時代の歴史に詳しい奈良大学准教授・相原嘉之(あいはらよしゆき)先生。(以降、「相原先生」)

壬申の乱後、古代日本はどのように変化していくのでしょうか?
相原先生にお聞きしました。

大海人“天武天皇”に。天皇という特別な存在へ

編集部

相原先生、今回は壬申の乱後の日本の動向について聞かせてください。まず、大海人の勝利はその後の日本にどのような影響を与えたのでしょうか?

相原先生

一番大きいのは、天皇の政治的な立ち位置や権威を裏付ける宗教的な儀式を整えたことです。それまで天皇は「大王(すめらみこと)」などと呼ばれていましたが、名称を天皇と改めて権威性を強化しました。「天皇と呼ばれるようになったのは天武天皇から」という説が有力で、奈良県の万葉文化館にある飛鳥池工房遺跡からは「天皇」と書かれた木簡が出土しています。『日本書紀』を見ても天武天皇の頃から「皇太子」といった呼称が出てきて、制度的にも整っていきます。

編集部

なるほど。天武天皇が権威の強化を行ったのはなぜでしょう?

相原先生

天武天皇は武力で政権をとったわけですが、いつまた武力で地位を脅かされるとも限りません。そこで天武天皇は、地位を保持するには力を超越する特別な存在にならなければならないと考えたのです。

編集部

ちなみに天皇の宗教的な儀式とは例えばどのようなものでしょうか?

相原教授
相原先生

令和に行われたのと同じ、天皇陛下即位の儀式「大嘗祭(※)」が有名ですね。新嘗祭は天武以前も行われていたのですが、天皇の祭祀として格上げしたのが天武天皇です。

なら記紀
(※)大嘗祭(だいじょうさい)
天皇がその年に収穫された新穀などを神に供えて感謝の奉告を行い、神からの賜りものとして自らも食する新嘗祭(にいなめさい)の一種。天皇が皇位した後、はじめて行う新嘗祭を大嘗祭と呼ぶ。天皇と神が通じた存在であることを証明する儀式。
編集部

大嘗祭はこの頃からずっと続いているのですね……。歴史の深さに圧倒されます。こういった儀式を行った遺跡などは現存しているのですか?

相原先生

平城宮跡に大嘗宮跡と見られる施設跡が見つかっています。天武天皇は毎年のように大規模な大嘗祭を行っていたようですが、大宝律令の制定以降は天皇に即位した最初の年にだけ行うようになりました。これにより天武天皇は天皇という地位が特別であることを強烈にアピールし、権威と権力を併せ持つ古代天皇の中でも一番のカリスマとなったのです。

国営平城宮跡歴史公園

▲奈良県奈良市にある平城宮跡「国営平城宮跡歴史公園」。広大な敷地内で大嘗宮跡とされる史跡が見つかった。

相原先生

また、壬申の乱のさなか、天武天皇は現在の三重県・四日市あたりで太陽、天照大御神を拝んで勝利を祈ったとされています。戦いに勝利した後、伊勢神宮を整備し、天皇の代わりに神にお祈りする斎王・斎宮(さいおう・さいくう)に、娘の大来皇女(おおくのひめみこ)を任命しました。これが制度上、最初の斎宮とされています。このように天武天皇は、天皇を特別な存在へと押し上げるためのさまざまな制度を作り上げていきました。

古代のカリスマ「天武天皇」による法治国家の実現

編集部

当時の天皇は政治のトップでもあったわけですが、天武天皇は壬申の乱後どのような政治改革を行ったのでしょうか?

相原先生

天武天皇は『日本書紀』『古事記』の編纂の他、大宝律令の原型となる「飛鳥浄御原令(※)」の作成もスタートさせます。天智天皇の時代の「庚午年籍(※)」も6年に1回改訂版がつくられ、国を統治するシステムの原型を整えていきました。天武天皇、そして持統天皇の時代に一気に国造りが進んだと言えます。

なら記紀
(※)飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)
飛鳥時代後期に制定されたとされる法典。日本史上最初の体系的な律令法と考えられているが、「令(行政法)」だけで「律(刑法)」はなかった。
編集部

現在にも続く制度の基盤が誕生したというイメージでしょうか。この他には、どのような政策を実行していますか?

相原先生

各地に「大和の国」「伊賀の国」「美濃の国」などの国府ができ、その下に郡が整備されたのもこの時代です。今でいう都道府県、市町村の行政構造です。国の役所も「宮内省(現在の宮内庁)」「大蔵省(現在の財務省)」など二官八省のシステムができました。日本で最初の鋳造貨幣「富本銭(※)」ができたのもこの頃です。ちなみに、貨幣が生まれたのは鋳造技術の進化以外にも、重要な意味があります。

なら記紀
(※)富本銭(ふほんせん)
1999年に飛鳥池工房遺跡で7世紀の地層から出土。それまで最古の貨幣とされていた和同開珎(わどうかいほう、708年)より古いことが明らかとなった。
編集部

どんな意味があるのでしょうか?

相原教授
相原先生

貨幣制度というのは、国家の成熟度を示すものなのです。その貨幣で米などと交換できることを時の政権が保証するわけですから、国家への信頼が根底になければ成立しません。また、独自の元号を使い始めたのも特筆すべき功績だといえます。独自の貨幣と元号を持っているというのは、日本が独立国家であることを示す上でとても重要だったからです。

編集部

それは、「外国に向けて日本が独立国家であることを証明できる」という意味でしょうか?

相原先生

その通りです。そして、もうひとつ重要なのが都の整備。つまり藤原京(※)の造営です。藤原京を造営した後、日本は約30年ぶりに遣唐使を派遣しています。それまでは、唐にならって政治や制度を整備していたのですが、日本の国家制度が整ってきたことを報告に行ったのだと考えられます。東アジアの情勢、外交や国力も考えた上で、国家の中心となる都の整備は必須でした。

なら記紀
(※)藤原京
現在の橿原市にあったとされる都。5.3キロ四方の碁盤目状の都で、橿原市・桜井市・明日香村の一部にまたがっていた。
編集部

天武天皇によって日本が激変したという印象です……。当時の天武天皇の権力の強さが伝わってきますね。これらはすべて天武天皇による功績なのでしょうか?

相原先生

天武天皇は病に伏して686年に亡くなります。飛鳥浄御原令はつくりましたが、完成形は大宝律令でしたし、『古事記』『日本書紀』は712年、720年までできあがりませんでした。天武天皇亡き後、これらを実行していったのは、皇位を継承した天武天皇の皇后「持統天皇」です。そのため、天武天皇だけでなく、天武&持統による功績と言った方が正確かもしれません。

天武天皇亡き後、藤原京を完成させた女帝「持統天皇」

編集部

天武天皇と持統天皇による功績というお話がありましたが、持統天皇とはどのような人物だったのでしょうか?

相原先生

前編で「大海人が天智天皇から皇位継承を持ちかけられる」というエピソードを話しましたよね。大海人は、皇位継承を断ることで命拾いするわけですが、これは妻である持統天皇からのアドバイスだったといわれています。後に、大海人と一緒に吉野に隠棲し、壬申の乱も一緒に乗り切るわけですから、聡明で我慢強く、先見の明を持った女性だったのでしょう。

編集部

なるほど。であれば天武天皇も安心して皇位を引き継ぐことができたでしょうね。

相原先生

そう思います。天武天皇亡き後、孫の文武天皇とともに政治を引き継ぎ、天武天皇の悲願だった大宝律令や藤原京を完成させました。日本の歴史上初の法治国家の成立は、天武・持統という夫婦による功績なのです。

編集部

夫婦の悲願でもあった藤原京ですが、史跡などのおすすめはありますか?

相原先生

橿原市に藤原宮跡があり、最近、門の跡と思われる跡柱が発掘されました。また橿原市の本薬師寺は、もともと持統天皇が病気になったときに天武天皇が治癒を願って建てたものです。藤原宮跡も本薬師寺も、周辺は自然豊かなスポットなので、散歩がてらに訪れてみてほしいですね。

奈良県橿原市の藤原宮跡

▲奈良県橿原市の藤原宮跡。奥に見えるのが門の跡と思われる赤い柱

本薬師寺跡周辺。ホテイアオイが咲き乱れる

▲本薬師寺跡周辺。ホテイアオイが咲き乱れる

編集部

藤原宮跡は「飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群」として世界遺産への登録を目指していますよね?先生は、この資産群にはどんな価値があると考えていますか?

相原先生

1つには日本と東アジアとの交流の軌跡が追えるということ。もう1つは、日本の国家形成の成り立ちが分かることです。古代日本の国家形成は、聖徳太子の時代から壬申の乱を経て、大宝律令までの約100年で実現されました。「その過程のすべてが詰まった土地」という視点で見ると、飛鳥・藤原の価値や希少性を感じられるのではないかと思います。

国家基盤形成のきっかけ。壬申の乱は“古代日本のターニングポイント”

編集部

ここまで壬申の乱後の歴史についてお聞きしてきました。壬申の乱は、日本の歴史にどのような影響を与えたと考えられるでしょうか?

相原先生

現代社会につながる天皇制や国の法律・制度など、法治国家の基盤を完成させるきっかけになったのは壬申の乱です。壬申の乱に勝利した天武・持統によって国家形成が成し遂げられたと考えると、古代日本のターニングポイントとなる出来事だったと思いますね。

編集部

もし大友が壬申の乱に勝利していたら、日本はどうなっていたと思いますか?

相原先生

大友の大津京は、前編でも述べたとおり守りの都です。国家の中心に位置する、シンボリックな首都ではありません。天智天皇は、琵琶湖の東側に新しい都を作る構想を持っていたらしく、もし大友が勝利していたら、父親の意志をついで琵琶湖の東に都を作っていたかもしれません。

相原教授
編集部

藤原京の歴史はなかった可能性があるということですね……。政治や政策にも影響はあったと考えられますか?

相原先生

地形的に守りやすい防御の都市だった大津京は、どちらかというと百済を意識した都でした。一方、天武天皇の藤原京は唐の律令国家を意識したもので、方向性が異なります。大友がどのような国造りを構想していたかはわかりませんが、法治国家の成立には熱心ではなかったかもしれません。もし大友が勝利していたら、日本の法治国家としての成立はもっと遅れていたのではと感じます。

編集部

「大友がもし勝利していたら……」という視点で飛鳥時代を深堀りしてみるのもおもしろいかもしれませんね。乱の原因やその後の影響について知ることで、古代日本の国家形成のストーリーまで理解することができました。壬申の乱について知ったことで、奈良県の史跡めぐりが何倍も楽しくなりそうです!今回も興味深いお話をありがとうございました!

相原嘉之教授
PROFILE

相原 嘉之
奈良大学准教授

1967年、大阪市に生まれる。1990年、奈良大学文学部文化財学科卒業。奈良国立文化財研究所飛鳥・藤原宮跡発掘調査部、滋賀県文化財保護協会、明日香村教育委員会文化財課長を経て、現在奈良大学文学部文化財学科准教授。博士(文学、奈良大学)主な著書に「飛鳥・藤原の宮都を語る」「古代飛鳥の都市構造」「飛鳥と斑鳩」「蘇我三代と二つの飛鳥」などがある。

1967年、大阪市に生まれる。1990年、奈良大学文学部文化財学科卒業。奈良国立文化財研究所飛鳥・藤原宮跡発掘調査部、滋賀県文化財保護協会、明日香村教育委員会文化財課長を経て、現在奈良大学文学部文化財学科准教授。博士(文学、奈良大学)主な著書に「飛鳥・藤原の宮都を語る」「古代飛鳥の都市構造」「飛鳥と斑鳩」「蘇我三代と二つの飛鳥」などがある。